余暇と遊びは基本的権利 子どもの権利条約 批准から30年

 5月5日は「子どもの日」です。今年2024年は、子どもを権利の主体として位置付けた「子どもの権利条約」の日本批准(1994年)から30年、権利条約の前身となる「児童の権利に関するジュネーブ宣言」(1924年)から100年の節目でもあります。日本国憲法と児童憲章・子どもの権利条約の理念と精神を広めようと活動する「日本子どもを守る会」の会長、増山(ましやま)均さん(早稲田大学名誉教授)に、日本の子どもたちの現状をどう見るか、聞きました。

編集長インタビュー
早稲田大学名誉教授 増山 均さん

 ―日本の子どもたちの現状をどう見ていますか。
 非常にストレスが強い環境の下で生活していると私は見ています。
 子どもの権利条約に基づき、日本は国連子どもの権利委員会から、これまで4回の勧告を受けていますが、そのすべてを通じて、学校教育制度が非常に競争的であり、その中で子どもたちに様々な問題が生じていることを指摘されてきました。
 さらに、新型コロナ禍で、子どもたちの生活や活動が狭められ、人との関わりも制限された。その再開のなかで生じる人間関係のストレスが重なっています。
 ―権利条約の批准から30年で前進面は。
 日本の子ども政策や法律、制度のなかに、子どもの権利条約が位置付けられる時代になりました。日本政府は国連から、総合的な子ども法をつくるよう言われ続けてきましたが、避けてきました。それでも、国内外の声に押されて、ようやく「こども基本法」が2022年に成立し、「こども家庭庁」が始動し、「こども大綱」などの政策がつくられ始めました。
 また、それ以上に大きいのは、市民レベルで、子どもの問題を考えるとき、権利条約が基準なんだという視点が位置づいてきた。さまざまな不十分さはありつつも、大きな前進面だと思います。

「あそびが主食」
 ―課題の面は。
 こども基本法はつくられましたが、それが子どもの権利を深く位置付けるものになっているのか、という問題があります。
 例えば、権利条約12条の子どもの意見表明権をめぐっても、子どもを集めて「何でも言ってください」といったら、意見を聴いたことになるのか。あるいは、子ども議会を開けばよいのか。そうした取り組みも大切ですが、それだけでは子どもの意見表明権を保障したことにはなりません。
 子どもが安心して口を開いて、本音を言える。本音のさらに奥にある、本当の願い、本願とでも言うべきものを表出できる、その環境づくりが大切です。
 私自身は「あそび・遊び」がキーワードだと思います。遊びのなかで心が解放された時に子どもが発する言葉、遊び終わった後に満足して口からもれる言葉、そこにこそ、子どもの本当の気持ちと意見表明の切り口があるのではないでしょうか。
 ―遊びにかかわって子どもの権利条約31条を広める活動を続けておられます。
 31条は「休息、余暇、遊び、文化的生活・芸術への参加の権利」です。
 日本では、子ども以上に大人が余暇を奪われていて、余暇が権利として重要なのだという理解が進んでいません。
 余暇とは、何もしないことも含めて気晴らしを認めることです。「何もしない」のではなく「何もしないことをする権利」なのです。余暇の大切さを理解してもらうために、私は「遊び」と平仮名の「あそび」をセットにして、「あそび・遊びは子どもの主食です」と言い続けてきました。

31条が持つ深さ
 ―あそび、ですか。
 日本語では、車のハンドルやクラッチなど、部品同士の結合のゆとりを「あそび」と表現します。車のハンドルを操作するとき、「あそび」がなくて、力を入れるとすぐに方向が変わってしまったら、かえって危ない。一見、無駄に見えるゆとりの部分が、正常に動く機能を支えているのです。
 日本社会のように、大人や教職員が非常に忙しく、「あそび」を奪われている状態では、子どもの声をゆっくり聞いて、意見表明の権利を保障するゆとりがありません。
 遊びを見る時にも、余暇(あそび)の視点が重要です。子どもたちが自由に遊んでいる姿を見ていると、板の隙間のゴミを集めたり、ひたすら穴を掘っていたり、何が面白いのだろうと大人が思うような「名もない遊び」がふんだんにあることに気付きます。
 大人が子どもたちを遊ばせようとすると、ついつい「名前のある遊び」で時間を埋めてしまう。しかし、それは「遊ばせ活動」であって、子ども本来の「遊び」ではありません。「何をしても良いし、何もしなくても良い」という余暇の視点があれば、子どもたちが自由に発見し共有し合う名もない遊びこそが、「あそび・遊び」を支えていることが分かります。
 31条は、深い中身が含まれた条文なのです。

子どもの権利市民の権利保障と連動で
増山均さんに聞く

―入学式、卒業式をはじめさまざまな学校活動や遊びが制限されたことなど、コロナ禍が子どもたちにもたらした影響をどう取り戻すか、日本社会の大きな課題です。
 本来、学校は子ども同士が学び合ったり、時にはけんかをしたりといった仲間同士の関わり合いを生む場です。コロナ禍で、そうした関わり合い自体が制限されてしまった影響が子どもたちにどう出てくるのか、注視が必要です。
 ただ、子どもは可塑性(柔軟に変化する力)があり、適応力、回復力もある存在です。大人たちが考えるべきことは、子どもたちの居場所に何が必要なのかを考え、それが確保された場所をつくっていくという基本に立ち戻ることです。

6つの権利を常に
 私は、権利条約の中にある6つの権利が、とりわけ大事だと思います。
 それは、①豊かに学べる「学習権」②命と健康が守られる「生存権」③安心して暮らせる「生活権」④先ほど触れた「休息、余暇、遊び、文化的生活・芸術への参加の権利」⑤つまづいたり失敗してもやり直せる「更生権」⑥自分たちのことは自分たちで決め、諸活動に参加できる「自治と参加の権利」―です。
 この6つの権利は、学校でも、学童保育でも、児童養護施設のような場でも、子ども食堂や遊び活動といった居場所づくりでも、共通に持つべき視点です。とりわけ現在の学校教育が多くの子どもにとって居場所になれていない大きな要因は、4~6番目の権利が、非常に軽視されているからです。
 ―権利条約の視点で、日本社会が特に生かすべきことは何でしょうか。
 子どもの権利を保障しようと思ったら、大人自身の権利が保障されなくてはいけません。
 学校の教員があまりに忙しすぎる。あるいは、親たちも忙しすぎて、地域で一住民・一市民として活動するゆとりがない。そういった状態では、子どもの権利を、保障できるはずがありません。また、軍事力の強化などの動きが進めば、市民の自由と民主主義は抑圧されます。大人の市民レベルの権利保障と連動させて、子どもの権利を実現していく。これが子どもの権利条約からのメッセージではないでしょうか。