後輩と東大闘争に
大東文化大学大学院修士課程二年目の秋に『東大闘争』があり、後輩たちといっしょに冬の厳冬のなか、徹夜で参加しているうちに「修士論文」の提出期日がせまり、「これはだめだ」と観念し、結局中退しました。当時日本共産党板橋地区委員会の責任者をしていた、佐久間富弥さんから「地区委員会で党の専従をやらないか」と言われ、ためらうことなく引き受けることにしました。
高島平団地入居
当時、徳丸たんぼ(現、高島平)の一角に、巨大な公団団地ができ、結婚して間もなかった私に、「高島平団地に入居したら」という誘いもあって、1DKに入居。一挙に1万戸のマンモス団地が誕生しましたが、「保育園も、幼稚園も、学校も足りない」など、深刻な問題が噴出し、「自治会をつくろう」という呼びかけがきっかけで高島平二丁目団地自治会ができました。
中島武敏さんが、はじめて衆院議員として当選したのが、それから数年してからです。
二十八歳で区議に
一九七五年の区議会議員選挙では、板橋地区委員会の勤務員として「候補者として立候補を」と、数名の方にお願いしましたが、すべて断られ、結局、私がでることに―-。なれない演説に「北京放送を聞いているみたいだね」などと冷やかされながらも、区議会に送っていただきました。当時、二十八歳でした。
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