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2005/4/11 闘病生活の父の言葉
2005/3/3 後輩と東大闘争に。 高島平団地入居、そして 二十八歳で区議に。
2005/1/22 「文学部中国文学科」を掲載しました。
2005/1/12 「三男坊」「東京に行ったらアカにはなるな」を掲載しました。

三男坊

私のふるさとは、北海道でいえば南部地方にあたる「ニセコ国定公園」の一角で、温泉がわきでている地帯です。函館本線の「昆布」駅から歩いて五分ほどの昆布郵便局が、私の生家です。私のひそかな自慢は、その羊蹄山(エゾ富士)が、写真などでみる富士山の姿にもっとも似ているということです。

父は、親の代から郵便局の後をついだのですが、本人は、帯広畜産大学をでて獣医をめざしていたみたいで、お酒をのんで気分がいいときには、三男坊の私を相手に学生時代のことを涙まじりに話していたものです。母親は、郵便局が二十人ほどの集配局ということもあって、しばしば局員の人をよんでは酒宴を開いていたときなどは、まめに働いている姿が脳裏にのこっています。お酒を飲んだあと、局内の人間関係などのウサを母親にぐちることもしばしばで、そんなときには私が母親の隣にピッタリくっつくようにドキドキしながら小さくなって布団にもぐり込んでいたことも、いまとなっては懐かしい思い出になっています。この両親もすでに他界しています。

 夏は、近くの川で泳いだり、魚釣りや野球をしたり、とにかく遊びほうけていました。冬は、二メートルをこえる豪雪地帯ですからスキーが主たる遊びで、冬休みなどは、朝から夕方まで裏山で友達と遊んでいました。勉強はその合間に「少し」という日課でした。スキーでもジャンプ競技はあまり得意ではなく、小学校時代に回転競技で、後志(しりべし)地方での競技大会で優勝したときが「全盛期」で、あとはパッとしませんでした。

 道立倶知安高校に入学したときには、成績優秀な同級生が多く、「上には上があるものだ」と、妙に悟りきった自分であったように思っています。母親っ子の私はずいぶん心配かけたなー、少しは心配かけない息子でありたかったと、いま反省しています。


「東京に行ったら、アカにはなるな」
高校を卒業して、上京する数日前のことです。二階にいた私を、めったに会話をしない父が「和憲ちょっとおりてこい」と呼ぶのです。なんだろうと思っておりていくと「ちょっとここに座れ」というので、かしこまって座ると「東京に行ったら、アカにはなるな」と言われたことをはっきりおぼえています。

 最初は何をいっているのかわかりませんでしたが、話をしているうちに、その意味を理解することができました。その時に私が、どう返事をしたかははっきりしていません。おそらくなんのコメントもしなかったと思います。「そうなんだ、東京というところはそういうこともあるんだ」と漠然と思いをめぐらせたことだけはたしかです。

 いまにして思うと、遊びほうけていた北海道の大地こそが、私に四季の移り変わりをとおした事物の変化・発展を確認させてくれていたと信じています。

 季節の中で、私は春が一番好きです。雪のあいだからフキノトウが芽を出している。この力強さは感動的でもあります。「おい、君も元気してるかい」…こんなささやきを私にしてくれているようで、なんだか幸せな気分になったりもしました。

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文学部中国文学科
北海道から上京して板橋にキャンパスのある大東文化大学の文学部中国文学科に入学。そのころは「高島平」は一面に雑草が繁茂していて、民家も旧家がある程度の静かなところでした。農道があり、道路もジャリ道で夜は真っ暗なところでした。

 赤茶色の大学校舎が、なぜか不つりあいにも思えました。

 新しい友達といえば、同じ道立倶知安高校からきたI君ぐらいで、「中国語研究部にでも入ろう」ということで、入部しました。当時、顧問の一人に王さんという中国人がいて、覚えたての中国語でさかんに会話に熱中したことが今では懐かしい思い出になっています。当時は、結構中国語にはまってもいましたが、今ではほとんど忘れてしまいました。

 大学二年のときに、私が尊敬していた先輩からすすめられて民主青年同盟に入りました。そのときは、民青同盟がどういうものなのかということをあまり知りませんでしたが、とにかく「猿が人間になるについての労働の役割」など、手当たりしだいに科学的社会主義の本を読みあさり、今日の自分がいるのもそのおかげだと実感しています。日本共産党には大学三年の七月に入りました。

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後輩と東大闘争に。 高島平団地入居、そして 二十八歳で区議に
後輩と東大闘争に

 大東文化大学大学院修士課程二年目の秋に『東大闘争』があり、後輩たちといっしょに冬の厳冬のなか、徹夜で参加しているうちに「修士論文」の提出期日がせまり、「これはだめだ」と観念し、結局中退しました。当時日本共産党板橋地区委員会の責任者をしていた、佐久間富弥さんから「地区委員会で党の専従をやらないか」と言われ、ためらうことなく引き受けることにしました。

 高島平団地入居

 当時、徳丸たんぼ(現、高島平)の一角に、巨大な公団団地ができ、結婚して間もなかった私に、「高島平団地に入居したら」という誘いもあって、1DKに入居。一挙に1万戸のマンモス団地が誕生しましたが、「保育園も、幼稚園も、学校も足りない」など、深刻な問題が噴出し、「自治会をつくろう」という呼びかけがきっかけで高島平二丁目団地自治会ができました。

 中島武敏さんが、はじめて衆院議員として当選したのが、それから数年してからです。

 二十八歳で区議に

一九七五年の区議会議員選挙では、板橋地区委員会の勤務員として「候補者として立候補を」と、数名の方にお願いしましたが、すべて断られ、結局、私がでることに―-。なれない演説に「北京放送を聞いているみたいだね」などと冷やかされながらも、区議会に送っていただきました。当時、二十八歳でした。

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闘病生活の父の言葉
つい最近、「あなたの尊敬する人はだれですか」との設問が、新聞社のアンケートのなかにあり、私は即座に「父と母」と書きました。私は、いわゆる団塊の世代。戦争を体験し、四人の子どもを育てた親の『たくましさ』、そして『やさしさ』―おやじが癌の末期で、腕の骨が箸の棒のように細く、いたみに耐えながら闘病生活をつづけていたときに「和憲のやっていることが少し理解できるナァ」と語ったことを、あとで母から聞かされ、涙があふれ出てきたことを思い出します。私が学生時代夏休みで帰郷したときに、父が「なんでお前は共産党なんだ」となじるときに、自分でもおどろくほど冷静に日本共産党について語っていました。そばに母がかしこまって聞いていたかもしれません。母は、私が共産党員と知ったときから、心配をしつつ、理解者でありつづけていました。 

  いま、自民、公明、民主などの政治が、年金生活者をはじめ、国民への容赦のない負担増のおしつけ、さらには消費税大増税、憲法改悪など、悪政の競いあいをおこなっています。こうしたなかで、「国民が主人公」をつらぬき通している日本共産党の躍進が、なんとしても求められているし、私自身その一員としての役割を果たさなければならないと決意しています。

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ふるだて和憲事務所:板橋区大山東町32−1
電話:03−3962−7388